最初にお伝えします。悪人が出てくる映画は観たくないわ、という人以外は騙されたと思って観てください。インド映画をこれまで敬遠していた方にもお伝えします。騙されたと思って観てください。映画はインドの最大の娯楽なんです。インド人、真剣に娯楽を追求しているんです。
そう、インド映画といえば、基本は歌って踊って、ストーリーはベタにベタベタ、分かりやすい展開で期待通りに進むのでハラハラしても安心して観ることができるのが王道です。王道なインド映画の欠点といえば、設定の深みに欠け、ちょっと雑(大味)というところでしょうか。なので、インド映画をご覧になる場合、繊細な深みは求めず、素直にベタに乗るとおもしろいし、泣けるところはちゃんと泣ける落としどろこがあります。
当館で今年インド映画をご覧になった方はご存知だと思いますが、そんなインド映画、、、、、最近は変わりつつあります。今回ご紹介する『盲目のメロディ 〜インド式殺人狂騒曲〜』は、歌うシーンはありますが、踊るシーンはありません。「踊らないけど大ヒット!予測不能なブラックコメディに全インドが喝采!騒然!ブッ飛んだ!」というコピー、素直にうなづけます。ベタベタわかりやすいどころか、次から次へとまぁ予想のつかない展開。先が見えないサスペンスはハリウッドにもありますが、なんというか、ハリウッドとは違う路線でやってくるので、え、そうくるか! 恐るべし、インド映画、となることでしょう。
サスペンスなのにコメディ(かなりブラックだけど)。長いんだけど、長いだけあって、途中に忘れてた話がやってきたり、ハチャメチャっぷりが最高。スクリームには、思わずプッ。すっかりごっそりもっていかれて、着地点が想像の斜め上で、最後の最後で、そうきたか! 恐るべし、インド映画。
あらすじ、知らない方は読んじゃダメですよ。できれば予告も観ないでください。もう一度言いますが、騙されたと思って観てください。マジで騙されますから。そして、観終わった後は大満足して頂けることでしょう。もしかしたら、もう1回観たいと思われるかもしれないくらいです。
「盲目のピアニスト」の話なので、(特に序盤は)音が効果的に使用されています。ウサギを追うシーン、包丁で野菜を切る音、BGM、昔の映画の歌謡曲、インドの古典音楽シタールの音、録音された会話、そしてピアノの曲は主人公の心境を表現していて素晴らしい!
主人公のアーカーシュを演じたアーユシュマーン・クラーナー、本作品中のピアノの演奏や歌は代役ではなく本人です。本作品の出演が決まってから、毎日何時間もピアノの練習をして、盲学校を訪ねて盲目の人たちと接したり、目隠しして生活したりして、アーカーシュという役をリアルにしていったそうです。舞台となっているのは、インドのプネー。大都市ムンバイから3時間くらいのところにあり、高地なので暑い南インドの避暑地としても有名なところで、治安も良く、大学や研究所が多く知的な街のようです。(名門のプネー大学は、名古屋大学と姉妹校!)
最後にもう一度言います。インド映画とかあまり興味ないのよねぇと思っている方も、ぜひ一度ご覧になってください。今年、インド映画が大好きになってしまった方は、どうぞご安心ください。刈谷日劇では、2020年も選りすぐって不思議な魅力が満載のインド映画をご紹介していく予定です。
余談ですが、本作品中に宝くじ売りのおばさんの腕のにあるシヴァ神のタトゥーの話が出てきます。第三の眼があるシヴァ神に関しては、こちら(世界一周「インド」)をご覧ください。
本作品中は踊りませんが、この映画の曲のミュージックビデオでは踊っています。
最後に「この映画は短編映画『ピアノ調律師』にインスパイアされました」と出てきますが、インドの短編映画かと思っていたら、フランス映画でした。L'accordeur The Piano Tuner(英語の字幕つき)
下記、ネタばれ内容ですので、映画を観終わって、「????」となった方、お読みください。最後に疑問を感じなかった方、同じ結論なのかお確かめください。(初見の方の目に触れないように、空白の下から始まります。下の方までスクロールしてお読みください。)
うさぎ、出番は少ないですが、かなり重要ですよね。最初にウサギが出てきたことを、すーーーーーっかり忘れていたところに、再登場。しかも、すばらしいひっくり返し方してくれちゃって。
ここから完全に作品のネタばれシーンについてです。もう一度確認しますが、映画観終わってますよね? 観終わっている場合のみ、下の方までスクロールしてお読みください。
盲目なのに、うさぎが見えたっていう話はありえないし、2人の死体を放置してムンバイに行って、どうやってロンドンに来れたのか、缶を蹴ったってことは角膜移植したということなのか、それならどうやってそんなお金を用意したのか。もしかしたら、目が見えなかったというのが嘘なのか。そういう深いところは作り手もあまり追求してないインド映画特有の雑なところなのか、観客もどこかで騙されているのか、という観終わっても騙されループに入ってしまうという、、、、恐るべし、インド映画っぷり。
オチは一体どうなんだ?と疑問に思ったので、アメリカの「Quora』(質問に対して回答するQ&Aコミュニティ)で、この映画の最後のシーンについての回答を読みました。やっぱりみんな騙されループにはいっていました。いろいろな視点での解釈があり、いくつもの説がありましたが、最終的によくまとまっていた、医者とドライブしているシーン(うさぎが出る前のシーン)の木に注目をした回答をご紹介します。
上記画像にあるこのシーン、実は2回出てきます。1度目の(ソフィーに出会い、ソフィーに何が起こったか話す前の)シーンでは、車の中の会話は、医者が「人生とは? それはLiver(肝臓/生存者)次第だ」と行った後、アーカーシュは黙ります。車は木のところを通過し、停車することなくそのまま進んで行きます。
そこで突然、2年後のヨーロッパのどこかになります。そして、ソフィーと再会して事の顛末を話すこととなりますが、ソフィーに話したバージョンでは、車は木を過ぎたあたりで停車し、うさぎのシークエンスとなります。つまり、この木を通り過ぎるところからのストーリーが、原題『Andhadhun(ヒンディー語で「理論なし、判断できない」みたいな意味)』の表すところで、シミーはやっぱりひどい人、アーカーシュは角膜移植していない、、、っていうのはアーカーシュの作り話しだという可能性があるということになります。
最初のシーンが本当(実際に起きたこと)であれば、車は木のところで停車することなく進み、アーカーシュは医者の提案を受け入れ、おそらくシミーの角膜とお金を手にして、ヨーロッパにきたということになるのでしょう。だから、(映画の流れ的に、不思議だと思った)一度車で立ち去ったと思ったシーンの後で、突然現在ということでヨーロッパのシーンがあったのだと納得しました。あれ、そしたら冒頭のうさぎのシーンは一体どういう意味が、、、? うさぎも盲目っぽいのはなぜ? どこからが嘘で、どこが本当なのか、いつ見えてて、いつが見えてなかったのか。
そう考え始めると、もう一回、観たくなりませんか?(私、観てしまいました。) 雑で大味どころか、深いです。いや、マジで、恐るべし、インド映画。
刈谷日劇では、2020年も選りすぐって不思議な魅力が満載のインド映画をご紹介していく予定です。2020年も刈谷日劇をよろしくお願いいたします。